「人が恋におちる瞬間をはじめてみてしまった」
羽海野チカさんの漫画『ハチミツとクローバー』で、好きなシーンの一つが、一巻の冒頭、主人公のはぐちゃんと竹本くんが初めて出会い、竹本くんが恋に落ちる瞬間です。
そして、このとき、先輩の真山さんが心のなかで呟いた言葉が、「人が恋におちる瞬間をはじめてみてしまった」です。
以下、ハチクロの冒頭、はぐちゃんと竹本くんの出会いのシーンについて、簡単に紹介したいと思います。
柔らかな風の吹く春、物語は、東京の浜田山美術大学に通っている登場人物たちが住んでいるアパートから始まります。
アパートは、大学から徒歩10分。
アパートの広さは、6畳プラス台所3畳で、風呂なし。築25年の木造建築で、家賃は3万8千円(家賃は途中で2千円値下げ)。
このアパートには、主人公で浜美の建築学科に通う竹本くんと、先輩の真山さんが住み、天才的で破天荒な彫刻学科の森田さんも、ときおり居候のように滞在します。
ある日、竹本くんたちが大学に行くと、浜美の美術史担当の花本先生の後ろに、一人の見知らぬ小さな女の子が隠れるように立っています。
彼女の名前は、花本はぐみ。愛称ははぐちゃん。
花本先生のいとこの娘で、この春から浜美の学生になるのだと先生は彼女を紹介します。
はぐちゃんは、人見知りで、うまく話せませんでした。
すると、竹本くんは、意を決したように持っていたコロッケをはぐちゃんに差し出し、声をかけます。「一緒に食べませんか」
その後、みんなでお茶をしているときも、竹本くんは心を奪われたようにじっとはぐちゃんを見つめています。
この瞬間の語り部は、「真山さん」。
竹本くん自身、「一目惚れ」だと物語の後半で語っているので、自分でも恋心には気づいていたのかもしれません。
でも、このときはもしかしたら、まだ自分の気持ちをはっきりとは分かっていなかったのではないでしょうか。
はぐちゃんへの想いがはっきりと形になっていく過程で、「ああ、この子を好きになったのはあのときだ」と確信に変わっていったのではないかと思います。
だから、恋に落ちる瞬間の視点が、「真山さん」なのでしょう。
そして、実はこのとき乱入した森田さんもはぐちゃんに恋心を抱くのですが、あまりにも独特な愛情表現のため、誰一人気づくことはありませんでした。
これが、物語の冒頭、出会いの場面です。
冒頭は、ドタバタ劇だったものの、綺麗に〈始まり〉に落ち着いていきます。
竹本くんと森田さん、二人のなかで、はぐちゃんに向けて小さく芽生えた恋心。
竹本くんが、持っていたコロッケをはぐちゃんに差し出し、声をかけるシーンでは、この物語の最後に美しく結実する「四つ葉のクローバー」が舞っています。
それから、ふしめがちにコロッケを頬張るはぐちゃんを、竹本くんはじっと見つめます。
羽海野チカ『ハチミツとクローバー〈1〉』
その様子を見ながら、真山さんが心のなかで発するのが、この「人が恋に落ちる瞬間をはじめてみてしまった」という言葉です。
流れ星よりもきっと貴重で、美しい、「人が恋に落ちる瞬間」。のどかな、でも、どこかそわそわした春の昼下がり、物語の始まりを告げる素敵な名言です。