「大化の改新」を簡単に解説
子供の頃に、歴史用語と言ったらとりあえずこれは覚えておく、というくらいに印象に残っているのが「大化の改新」です。
語呂合わせの覚え方は、僕の場合、「虫も殺さぬ、大化の改新」でした。「む(6)し(4)もこ(5)ろさぬ」というわけです。
でも、大化の改新とは一体なんだったのか、どういった目的で行われた、どういった内容の出来事なのか、といったことは覚えていない人も多いのではないでしょうか。
以下、大化の改新について、わかりやすく簡単に解説したいと思います。
大化の改新とは
大化の改新とは、645年に始まった日本の大規模な政治改革のことです。
聖徳太子の死後、蘇我氏が勢力を強め、大きな力を持つようになりました。
そのことから、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が中心となり、645年、蘇我氏を打倒し、中国の隋や唐の制度を参考に、天皇を中心とする中央集権国家を目指して、政治改革が実施されます。
これが、大化の改新です。
大化の改新の具体的な内容としては、公地公民制、班田収授法、国郡制度、租・調・庸の税制などが挙げられます。
(1)公地・公民とは、それまで豪族が私有していた土地や人を、国家が直接支配する、というものです。
(2)班田収授法とは、戸籍をつくり、口分田と呼ばれる田んぼが人々に与えられ、死後は国に返すことになる、という土地制度です。
(3)国郡里制とは、全国を国に分け,さらに国を郡に、郡を里に区分した制度です。国には都から国司を送り、郡は地方の豪族を郡司に任じ、里はその地の有力者を里長とします。
(4)租・調・庸の税制とは、公民に、税や労役を負担させる、というものです。祖は、稲を納め、調は、その地の特産物を納め、庸は都で働いて税を納めるか、代わりに一定量の布を納める、という形になっていました。
飛鳥時代から奈良時代にかけての税制度です。「租」は、田んぼで収穫したお米を税として納めることをいいます。「庸」は都で働くことで税を納めるか、代わりに布などを納めることをいいます。「調」は布や特産物(絹・紙・漆、工芸品など)を税として納めることをいいます。江戸時代になると「年貢(ねんぐ)」として、お米を納めていました。現在のようにお金で納めるようになったのは、明治時代になってからです。
大化の改新によって、のちの律令国家の基盤を築くことになります。
大化の改新の主な目的は、豪族が実権を握るのではなく、天皇を中心とした中央集権国家の確立でした。