「土偶」をわかりやすく解説
土偶という言葉は、一度は聞いたことがあって、「ああいうもの」だろうなという映像は浮かぶと思います。
ただ、実際に、あれがなんなのか、何時代のもので、なんのためのものなのか、他に似たようなものとして埴輪もあるが、土偶と埴輪の違いはなんだろうか、といった細かい点になると、よくわからない、という人も多いのではないでしょうか。
僕自身、土偶を説明せよ、と言われると、土偶は土偶だよな、としか答えようがない状態だったので、この辺りを調べながら、なるべくわかりやすく解説したいと思います。
土偶とは
画像 : 文化遺産オンライン
まず、実際の土偶の写真を見ると、そうそう、これが土偶だ、と思いますが、冷静に考えると、なんだこれは、とやはり正体はわかりません。
人間のような、人間でないような、目が大きいものや線の細いフォルムなど不思議な特徴を持った人形で、宇宙人と言われても納得してしまうような、異様な姿かたちをしています。
一番上の目が異様に大きい土偶は、イヌイットなどが雪中行動する際に使うスノーゴーグル(遮光器)に似ていることに由来し、遮光器土偶と呼ばれています。
いずれにせよ、謎多き土偶。「土偶」とは、簡単に言えば、「縄文時代に日本列島で作られた土人形」のことを意味します。
日本における人形の起源も、この土偶だと言われています。
土偶(どぐう)
縄文時代に、日本列島でつくられた土人形。
縄文時代というのは、日本列島における時代区分の一つで、紀元前13000年頃から約1万年以上ものあいだ続いた長い時代を指し、その縄文時代に、日本列島で作られた土人形が、土偶です。
また、土偶は、「土人形」ということで、材料は粘土を使用し、火で焼いて固くしています。
この土偶の定義というものは、実はあまりよく定まっていないようで、一番狭い意味では、縄文時代に日本列島で作られた土人形という意味になりますが、これだと同じようなものでも人間の形をしていない、動物や道具のようなものの場合、土偶とは呼ばれません。
その場合は、 「土製品」という味気ない扱いになり、一方で、広い意味では、こういったものも含めて土偶と呼ぶ場合もあるようです。
ただ、基本的に、「土偶」と言ったら、この人間っぽい形の人形をイメージするのではないでしょうか。
現在、土偶は2万点ほど見つかっているそうで、まだまだ多くの土偶が眠っていると考えられています。縄文時代において、土偶が相当作られたのでしょう。そしてまた、弥生時代の頃になると、突如姿を消してしまっているようです。
土偶はなんのためにあったのか
それでは、いったいこの土偶はなんの形をし、なんのために作られたものなのでしょうか。
まず、土偶の多くが、わざわざ壊されて埋められていたという謎があります。
長い年月の末に、自然と壊れてしまったのではなく、わざと壊して、その上で埋めていたということから、作り、そして壊すことまでひっくるめての何か意味合いがあったのでしょう。
バラバラに壊される土偶、一部だけが壊される土偶、壊されない土偶、といった違いもあり、用途が異なっていたのではないか、という指摘もあります。
また、土偶の性別に関しては、最古の土偶から、基本的に女性、あるいは妊娠している女性を表現していると思われる特徴が見られます。
ただし、縄文時代の後期に入ると、男性とも女性とも思えるような、両方の特徴を備えた土偶も出てきているようです。
妊娠している女性をかたどった土偶を作り、壊してから埋める、ということが行われていたと考えられる縄文時代。
一体なんのためにあったのか、正確な事はわかっていません。
ただ、いくつかの説があり、たとえば、その一つが、「再生の祈り・豊穣祈願説」です。
縄文時代の人々の死生観が、「円環する命」であり、自分自身が姿形を変えながら、自然のなかに帰っていく、さまざまに循環していく、そしてまたこの世に帰ってくる、といったものだったようで、この死生観において、命が生まれる、すなわち「再生」の象徴として、女性の形の土偶が作られたのではないか、という説です。
土偶を、わざわざ壊す、というのも、再生の象徴である土偶を壊すことによって、より再生を促す、といった意味合いがあったのではないか、ということのようです。
この再生への祈りというのが、土偶における意味の一つの有力な説です。
他にも、鎮魂説や、人形説、なかには子供のおもちゃ説などもあるようで、文字も記録もない時代なので、なぜ土偶があったのか、といった点は、まだまだ謎の多い奥深い世界のようです。
この辺り、気になったら、色々と記事や本、YouTubeの動画などもあるので、探してみてはいかがでしょうか。
ちなみに、土偶と埴輪の違いですが、埴輪はそもそも時代が違い、土偶が「縄文時代」なのに対して、埴輪は3世紀半ばから7世紀末の「古墳時代」になります。
埴輪
埴輪は、古墳の上に並べ、大王の埋葬儀礼のためにあったようで、死者の魂を守ったり鎮めたりする意味合いがあったのではないかと考えられています。